彼女はとても上機嫌で、誰かと話したい気分で、ついでにと言っては語弊があるが情報を求めていた。
そこにたまたま通り掛かったのがその悪魔だった、ただそれだけの事。
格段の意図もなく、善意も悪意もなく、偶然出会った悪魔と人間。
そんな時の人間の反応はいくつかのパターンに大別できる事を、その悪魔も知っていただろう。
怯えて逃げるか、戦う気で武器を構えるか、交渉しようとしてくるかだ。基本的には。
だから驚いたのだろう。
「あら、可愛い」
「ウォー! 何するのチミ!」
出会い頭に悪魔をひょいっと持ち上げ、抱き締める人間など普通はいない。
というか、そんな危険な事を普通はしない。
ただ彼女は普通ではない状態で、それが普通でない事を忘れていた。
悪魔がどんな反応をするか予測もしていなかったし、何も期待していなかった。
抱え上げた悪魔がじたばた暴れ出して初めて、彼女は交渉が始まっている事に気付いたのだった。
「うーん、手触りもいいわね。連れて歩くには丁度いいかしら」
「聞いてないね、ボクの話。ダメダメちゃんだね、チミ」
異界化した空間に現れる、主を持たない悪魔。
それはつまり多くの場合、マグネタイトを得るために人間を襲う気満々な存在である。
言葉は通じたとしても悪魔との交渉は人間とのそれとは違う。
彼等は狡猾で欲深く、気紛れで残酷なのだ。
どんなに愛らしく見えても悪魔は「悪魔」である。悪の名を冠しているのは伊達ではない。
歴戦のサマナーたる彼女はそれをよく知っている。弱い悪魔が相手でも気を抜いてはならない事も。
人間と悪魔が出会えば、戦いであれ交渉であれ、そこには一瞬の油断も許されない駆け引きが生まれる。
ただ――
「そんな事言わないで仲良くしましょうよ。チミ」
彼女、ナオミは駆け引きに必要な冷静さとは程遠いほろ酔いの幸せ気分で悪魔を抱き締める。
「あれれ? ボクにフォーリンラブ?……ドゥフフ」
その悪魔は、図らずもナオミの胸に顔を埋めた形になって、彼女に負けず劣らず幸せそうだ。
――この出会いに限っては、例外かも知れない。
「あなた、モコイね。何でこんな所にいるの?」
廃工場の床に、やっと抱擁から解放された悪魔がだらしなく座っている。
その前に杯を置き、蜂蜜酒を注ぎながらナオミは訊ねた。
「実は、ボクもよく分からないんだ。ドントノー」
一見すると子供が粘土で作った人形のような不格好な悪魔が、手をひらひら振りながら答える。
適当に作った粘土細工みたいな顔をしている割に、物腰のせいか豊かな表情があるかのように思える。
「あ、もらっちゃうね。ありがと。イケてるね、チミ」
指のない手で意外に器用に杯を取り上げ、モコイは蜂蜜酒を口にする。
傍らにはブーメランが置いてある所を見ると、これも手に持って使えるのだろう。
しかし、この生き物に酒を飲めるような器官があるのだろうか。いや、生き物じゃなくて悪霊だっけ。
モコイが奇妙な仕草をするのがいちいち面白くて、ナオミはその度に笑い声を上げた。
「じゃあ、あなたも知らない内に連れて来られてた口かしら。私と一緒ね、チミ」
真似ている間に楽しくなってしまって口調が伝染っているが、いい気分のナオミはそれを自覚していない。
素面の時の彼女なら、間違ってもモコイの真似はしないだろう。
「いやあ、最近忘れっぽいんスよ。ボク」
杯の中身を飲み干して、悪魔は足を投げ出して座ったまま胸を張る。自慢にも何にもならないのだが。
「ああ、そうそう。メイドさんにドキドキだったね」
「メイドさん? 会ったの?」
「ここに来る前にね、召喚された時。もうメロメロだよ」
召喚とメイド。二つの単語がナオミの中で結び付きかける。
ここに来る前に召喚されたという事は、モコイは別のどこかから召喚されてこの廃工場に放たれたのだ。
サマナーに使われている訳ではなさそうだから、放たれるために召喚されたと考えていいだろう。
とすれば召喚したのはゲームの主催者か、その配下である可能性が高い。
そしてそこに居たというメイド。悪魔の扱いに長けた誰かに仕えている?
何か心当たりがあるような気がするが……思い出せないので、諦める事にした。
何と言っても今は、愉快な新しい友人と美酒を酌み交わしている最中だ。考えるのは後でもできる。
「ねえ、私と一緒に来ない?」
好きな食べ物はとかペットを飼うなら何かとか、取り留めのない話をしながら杯を数回空にして、ふとナオミは思い出す。
畳んだまま持ち運んでいた日傘。そういえばこれはCOMPで、これがあれば悪魔を仲魔にできる。
普段使っている召喚魔法とは勝手が違うものの、使いこなせる自信はあった。
「そうだね。気前いいしね、チミ。仲魔になればボクも幸せ。ランラン」
酒に酔うような身体構造をしているのかどうかは甚だ疑問だが、モコイも既に上機嫌のようだ。
「おっけぃ。知ってると思うけど、ボクはモコイ。もうチミの仲魔」
「私はナオミ。コンゴトモヨロシク、ね」
「そして、ボクの希望。行きたいね、イスタンブール」
「いいわね、その内行きましょうか。食べたいわ、本場のドンドルマ」
サマナーと悪魔は硬く握手を交わした。……というか、ナオミがモコイの手を握り込んだだけだが。
モコイはここに連れて来られた経緯こそ理解していなかったが、廃工場の構造はそれなりに知っていた。
ナオミに出会うまでうろうろしていていて道を覚えたらしい。
ぐにゃぐにゃした奇妙な動きで先導するモコイの後をついて歩くと、出口はすぐだった。
「どう、役立つでしょ、ボク。あ、ホメなくてもいいっスよ」
モコイは誇らしげに胸を張るが、何の事はない、単に元々出口が近かっただけである。
無駄に迷わずに済んだのはモコイのお陰かも知れないが、酒盛りをしていた分、時間は余分に掛かっている。
が、今のナオミはそんな細かい事を気にしてはいない。
「うーん、風が気持ちいい……」
朝の微風を浴びて伸びをする。何せ酔っ払った頭で制御室のレバー相手に悪戦苦闘し、薄暗い廃工場から出てきた後だ。
外の空気と風がとても快く感じられる。この同じ街で殺し合いが行われているとは思えない程に。
「これから、どこ行くの。チミ」
「そうね……尋ね人がいるんだけど、闇雲に探しても仕方ないし。まずは情報収集」
まだ酔いは醒めていないが、冷静さは多少戻ってきた。……ような気がする。
制御室で聞いた放送では、レイ・レイホゥの名前は呼ばれなかった。
当然だ、そんなに簡単に死ぬ女ではないのだから。勝手に死なれても困る。
見付け出して、この手で止めを刺すまでは。
そして異界に多くの人々を呼び集めたゲームの主催者。こちらについても情報が欲しい。
ザックから地図を取り出して広げた。
ナオミが手で持つ高さだと見えないらしく、後ろでモコイがぴょこぴょこと飛び跳ねて覗こうとする。
「この近くには……シーサイドモールに、警察署。行ってみる価値はありそうね」
地図を畳んでザックに戻す。さて、行き先はどこにしようか――。
【時間:午前8時】
【ナオミ(ソウルハッカーズ)】
状態 酔い(Happy)、エストマ
武器 なし
道具 日傘COMP 黄金の蜂蜜酒 酒徳神のおちょこ
仲魔 夜魔モコイ
現在地 廃工場外
基本行動指針 呪印を無効化する 情報を集める レイホゥを倒す
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