(――未だ、悟らぬのか)
その声は低く、高圧的で、しかし何故か親しみを感じさせる響きだった。
(救世主を名乗る者までもが、殺戮に手を染める。地上の者の魂の穢れは拭い去り難い)
諭すように、憐れむように、何かを促すように声は降り注ぐ。
その声の命ずるままに受け入れてしまえば、楽になれるような気がした。
しかし、そうしてしまったら自分が自分でなくなるような予感もした。
(許せぬのであろう。法に背き、正義を貶める者が。ならば裁け、その手で。
お前にはその権利がある。穢れに染まりし全てを裁く審判者となれ)
「……違う」
返したのは拒絶の言葉。口に出す必要はなかった。心に思うだけで、その存在は応えを知覚する。
何故かは解らないが、それだけは知っている。
「僕は殺し合いに乗る気はない。それは、僕の信じる法じゃない」
しばしの沈黙の後、再び声が聞こえる。
(目覚めには、至らぬか……
しかし忘れるな。お前は神の名の下に生まれし者。裁くべきは何か、それはお前が定めることだ)
よく知っている声のような気がする。けれど、何を期待されているのか解らなかった。
「あなたは――」
姿の見えない、その存在に向けて問いを投げ掛ける。
答えは、返らなかった。
視界に光が戻ってもしばらくは、どちらが夢でどちらが現実か判然としなかった。
頭が重い。背中が酷く熱い。周囲には物音一つない。
朦朧としたまま身を起こすと、何かが体の上から滑り落ちた。外気の冷たさが突き刺さる。
ややくたびれたジャケット。これが今まで、冷たい空気から守ってくれていたのだ。
――はっとして、思わず跳ね起きようとする。その瞬間、強烈な眩暈に襲われた。
床に膝をつき、倒れそうな体を腕で支えた。フローリングの床に触れた手から冷たさが伝わる。
床や外気が冷たいのでなく、自分の体温が高いのだと気付いたのは数秒後だった。
背中の傷のせいだろう。全身が気怠さに包まれ、巻き直してもらったばかりの包帯は汗で僅かに湿っている。
重い頭を巡らせて、周囲を見回した。誰もいない。
聞こえるはずの物音がないことに覚えた悪い予感は、正解だったのだろうか。
「……スプーキー?」
この場所にいなければならないはずの人物の名を呼ぶ。声が震えているのが自分でもわかった。
応えは、返らない。
壁を支えに、ゆっくりと立ち上がる。鼓動が速まる。
彼も眠っているのかもしれないと考えようとしたが、その希望はすぐに打ち砕かれた。
スプーキーの姿は、さして広くない店のどこにもない。
棚の陰のようなここからでは死角になる場所もあるが、そんな所で寝ているはずもなかった。
戦う力も、身を守る術もない彼が、独りでどこへ行ったのだろう。
手掛かりを探し、ほとんど縋るような思いで視線を巡らせる。
「……これは」
目に付いたのは、カウンターの上に置かれたメモ。走り書きの字が踊っている。
『煙草と食料を確保してくる。すぐ戻るから待っていてほしい。スプーキー』
そう書いた横にはユーモラスな幽霊のイラスト。こんなメモを残せたのだから、余裕のある状態でここを出たのだろう。
「なんだ……」
安堵し、床に座り込む。体が重い。脇腹に手を当ててみると、石化した部分が広がっているのが判る。
熱のせいか、頭もぼうっとしていて思考が纏まらない。
ふと顔を挙げると、壁に掛けられた時計が目に入った。針が示している時刻は一時前。
確か、死者の名を告げる放送が流れたのは午前六時。
この店に逃げ込み、眠りに落ちたのは――あの放送から三時間も経っていない頃だったはずだ。
四時間ほど眠ったことになるのか、と計算したところで、思い当たる。
その四時間の内のいつ、スプーキーはこのメモを書いた?
『すぐ戻る』という言葉。これが書かれたのが、もし三時間も四時間も前だったとしたら。
彼は、『すぐ』には戻ってきていないのだ。
再び鼓動が速くなる。スプーキーが残していったジャケットを握り締める。
過ぎってしまった最悪の予感が、消えてくれない。
(……まさか。帰ってくるに決まってる。きっと、すぐに戻ってくるはずだ)
このメモが書かれたのはそれほど前ではないのだと、自分に言い聞かせる。根拠など何もない。
何もないことを嫌というほど知っているから、どんなに信じようとしても不安は消えない。
手が震え出すのを止めようとして、ジャケットの裾を更に強く握る。
このまま待っていても、スプーキーは帰ってこないかもしれない。
どこかで危機に瀕して助けを求めているのかもしれない。しかし、その場所を突き止める術はない。
彼が今まさに殺されようとしていたとしても、それを知ることもできず、助けることもできない。
いや、場所が判っていたところでどうにかなるとは言い難い。
傷付き、疲れ果て、立ち上がるのが精一杯の体で、手遅れになる前に駆け付けることができるか?
そこに辿り着いたとして、殺人者と戦うことなどできるのか?
悔しいが、無理だ。常人より優れた身体能力を備えているとはいえ、生身の人間に変わりはない。
思い知らされた、己の力の限界。無力さ。手の震えが止まらない。
その震えは次第に全身に伝播する。
――子供達は、生まれた時から己は道具なのだと信じていた。
神のための、メシアのための、救うべき人々のための。
正確には、生まれる前からと言うべきかもしれない。
培養槽の中でプログラムによって脳に知識と思想を直接植え付けられた、その時から彼らは道具だったのだ。
全てを捧げるようにと教えられた。
彼らに人間的な愛情を注ぐ者はなく、自らを大切にすることなど誰も教えなかった。
特別な使命を持って生まれた彼らにとって、己の生命など、務めを果たすための道具でしかなかった。
役割を持って造られた道具である以上、それを果たさなければ存在意義がない。
同じように生まれた兄弟達のこともまた、道具だと理解していた。
彼らが死んだら悲しいけれど、それが使命のための殉教であるなら仕方ない。
自らの死も、いざとなれば兄弟達を失うことも受け入れるよう彼らは教育されてきたのだ。
そして、同じ道具である兄弟達の他には、失いたくないと感じさせる者と出会うこともなかった。
子供達はそれぞれの任に就くまでは半ば隔離され、センター上層を出ることすら稀だったのだから。
まさに純粋培養である。
道具としての自我が揺らがぬように、無垢な神の子であるために、必要のない感情は与えられなかった。
人間として育てば自然に身に着くはずの感情を、子供だった時期を持たない子供達は知らぬまま――
使命に従って生きていたなら、自らが道具である前に人間なのだと気付かずに一生を過ごしたかもしれない。
ザインは震え続けていた。
今まで覚えたことのない感情に戸惑い、混乱していた。
(信じなければ。スプーキーが帰ってきた時に、僕がここにいなかったら彼を不安にさせるだけじゃないか。
待つしかない。今の僕には待つしかできない。帰ってきてくれると、信じていればいいんだ……)
ジャケットを握る指は、力を込めすぎて痛いほど。
大丈夫だと自分に言い聞かせる度に、そんな気休めでは安心できない自分がいることを思い知らされる。
初めて友人になった『普通の人間』。彼の身に何か起こったのではないかという悪い予測が頭を離れない。
失いたくないものを――友であれ、己の命であれ――持っていたなら、とうにどこかで知っていただろう感情。
ザインにとってはそれは未知のもので、自らの中に芽生えたそれをどう処理したらいいのかは見当も付かない。
ただ、その感情を何と呼ぶのかは理解していた。
今までは知識としてしか知らなかった概念。『道具』であれば抱くはずのない感情。
これは、恐怖だ。
【時間:午後1時】
【ザイン(真・女神転生2)】
状態:傷による発熱、軽く恐慌状態
背中に深い刀傷、腕・拳に刀傷多数、胸部打撲、石化進行中(脇腹の出血は石化により止まる)
武器:クイーンビュート(装備不可能)
道具:スプーキーのメモ、スーツの上着
現在地:夢崎区、小さめの通りにある文具店
行動方針:スプーキーの帰りを待つ
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